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影踏み

-1-






 それは、影だった。
 フィールドで、僕はたびたびそれを見かけていた。
 ボールを持って左右に目を走らせた時、視界のいちばん端に、その影が動いた。
 壁パス。ワン・ツーでぴたりと返ってくる。これ以上はないというくらいのタイミング だった。
 なのに、僕は受けられなかった。
 がくん、と足元が揺れ、相手ディフェンスに突っ込む形になった。
 視界が閉ざされる瞬間に、顔が見えた。
 影の、顔だった。







――君はずるいよ。
 身体の片側だけがひやりと冷たいのを、僕は感じていた。
――三杉くんは、いつだって…。
「岬…!」
「大丈夫か?」
 冷たさと、そしてそれとは対照的に、別の側は焼けるように熱かった。
「………」
 ゆっくりと目を開くと、視界にいくつもの顔が、逆光のまま僕を囲んでいた。
首筋と、腕に、草の感触が蘇り、自分がいる場所を思い出す。
「岬くん、平気?」
「うん……」
 フィールドの芝は、夏の太陽をいっぱいに吸い込んで、汗ばんだような熱気を僕に 伝えていた。その熱気の側に、僕は戻ってきたのだ。
「大丈夫だよ、翼くん」
 ゆっくりと身体を起こして、僕は笑った。






 控え目なノックの音がして、僕はすぐにその主を知った。
「だけど…」
 閉めたドアにぴったりと背をつけたままで、森崎はちょっと口ごもる。ここは僕と翼く んの相部屋で、彼の部屋は隣だった。
「ほんとに平気ならいいけど、今日だって――」
 パスを受けそこねた僕は、倒れる時に少々打ち所が悪かったらしく、ほんの数秒 気を失った。でも、トレーナーコーチの診断は病院行きの必要なし、だった。森崎もそ のことは知っているはずである。
「僕だってミスはしょっちゅうするよ。暑さも体調も関係ないってば」
「――うん、岬がそう言うなら、いいけど」
 いつもの困ったような笑顔を見せて、森崎はようやくうなづいた。今日の紅白試 合、森崎は僕と同じ白チームで、僕が倒れた時にはそのセンターサークル付近から はいちばん遠い位置にいた。そこから、すべてを見ていたのだ。
「アイシングするんなら、食堂の冷蔵庫に予備が入れてあるからって、コーチが」
「ありがとう。心配させて、ごめんね」
 廊下を行き来する仲間の声がしばらく賑やかに交差していた。そろそろ消灯時間 だ。
 ドアを閉めながら、森崎はもう一度軽くうなづいたように見えた。
 今夜翼くんは留守だ。協会の事務手続きがあって東京に向かった。森崎は僕が一 人なのを気遣って来てくれたのだろう。
 そう、今夜僕は一人だ。
 こんな夜、きっと、彼がやって来る。







 闇が重く、僕は眠れなかった。
 目を閉じても、その闇は同じように僕に迫ってきた。予兆をはらんだ重さ。僕は諦め てベッドから起き上がった。
「いるんでしょ、そこに――」
 闇は室内のそこここで音もなく澱み、息をひそめていた。窓辺のカーテンの半分ば かり開いたままの四角い形が、薄白く浮かび上がってわずかに揺れたようだ。
「隠れてないで、出ておいでよ」
 僕はもちろん、夢を見ていたのだ。
 闇がゆらりと動いて、窓の四角い白さの中に姿が浮かび上がった。
「――三杉くん」
 僕のよく知っている形、よく知っている影だった。
「こっちへ――僕のところに来てよ」
 手を伸ばすと、影はゆっくりとこちらに近づいてきた。ベッドの僕の脇に立って、そこ で足を止める。
「僕は、影だよ」
「違う、君は三杉くんだ。今日の練習の時も、僕にパスをくれたじゃない。そうでし ょ?」
「…………」
 伸ばしたままの僕の手を、影は両手で受け取るようにしてそっと包んだ。視線をま っすぐに感じて、僕はなぜか泣き出しそうになった。
「影でも何でもいいよ。君に会いたかったんだ。君にどうしても言いたかったんだ…」
 触れた手を、逆にぐいっと引っ張った。
 僕の目の前に、彼の顔がある。僕が、何度も呼びかけた、彼の顔だった。
「君はずるいよ。僕が呼ぼうとするといつもいない。今度のチームだって、君が来るっ て聞いたから帰国したのに。――君はいつもずるいんだ。僕は、君を許さない」
「――岬、くん」
 影は少し微笑んだように見えた。
「君が、君を許さないように――?」
 闇は再び視界を閉ざし、それでも僕は彼を離さなかった。彼は抗わず、僕の名前を もう一度だけ呼んだ。
 それは、あるはずのない体温だった。

 

 

 

 

 

 

 

-2-

 

 

 

 

 

 

 合宿は4日目を迎えた。

「岬!」

 タオルを振り回しながら叫んでいるのは松山だ。暑さには弱いと言いなが

ら、いつまでもあんな直射日光に当たって。

「翼は、帰んの、午後かぁ?」

「よく知らないよ。今日中に、ってことしか聞いてないから」

 叫び返してドリンクを少し喉に流し込む。地面に直接腰を下ろした森崎が苦

笑していた。

「翼のことなら何でも知ってるってことにされてるんだよ、岬は」

「やめてよね、ほんとにそうなら苦労はしないよ」

 せっかくの日陰も、この強い陽射しにはほとんど慰めにしかならなかった。

グラウンド脇に申し訳程度に植えられた若い木は、真上から照りつける太陽

をさえぎるには力がなさすぎる。

「影踏みって、岬、やらなかった、小さい頃?」

 不意に思い出したように森崎が言った。

「鬼ごっこなんだけど、ほら、影を踏まれたやつが鬼になるだろ。遊んでるうち

に夕方になって、影が長くなって――なんだか不思議な雰囲気になるんだよ

ね?」

 ああ、知ってる知ってる、と周囲から賑やかに声が上がり、僕はその中で

少し考え込んだ。僕は実はその遊びをしたことがない。遊び、というもの自体

あまり縁がなかった。

「――不思議な雰囲気?」

 仲間たちの会話を通り越して、森崎の視線が僕に届いた。

「ずーっとさ、互いに影ばかり追って遊んでると、夢中になり過ぎて――現実

が遠くに飛んじゃうみたいな――」

 森崎は、なぜあんな話を持ち出したのだろう。

「――森崎?」

「うまく言えないけどね」

 向こうでコーチたちが練習再開を告げ、森崎は立ち上がった。ジャージをぱ

んぱんと払い、腕を軽く回しながら駆け出す。他のメンバーたちもめいめいに

腰を上げてフィールドに向かった。

「翼だけどさ、東京で、ついでに寄ってくるかもな」

「だよな、結果くらいわかるし…」

「おい!」

 僕が振り向いたのに気づいて、早田がつっついた。つつかれた立花も、二

人してもごもごと言葉を濁し、走りながら目をそらす。

 誰も、何も言わず、練習が始まった。

 メンバーの誰もが、今日が何の日か知っている。そして、皆その名前を口に

するのを避けていた。

 今日は、三杉くんの手術の日なのだ。

 

 

 

 

 

 

 午後はまた紅白戦だった。ゾーンとマンツーマンに分けてそれぞれにディフェンス のチェックをすると言うので、僕は中盤の引き気味にポジションを取った。僕のチーム はゾーンのほうだった。
「高杉、ラインをもっと意識して!」
 左から切れ込んできた佐野の動きを測りながら、反対サイドへのケアーをする。赤 チームは新田、滝の駿足を生かそうとするはずだ。その分中盤でのチェックは早め に対応しなくてはならない。
『岬くん――』
 ヘディングで競って弾かれたボールが僕の方に来た。カウンターチャンスだ。フリー になっている沢田にはたいておいて自分で上がる。赤チームのマーカーが急いでか らんできた。僕に付いたのは次藤だ。
「えっ…?」
 僕の耳に、確かに声が聞こえた。首を振り向けて背後を見る。と同時にコーチの笛 が鳴ってフリーキックが指示された。もう一度沢田がボールを持つ。
『岬くん』
 逆サイドに出たボールをドリブルで持ち上がろうとした来生が囲まれた。苦し紛れ のバックパスだ。高杉がフォローして、僕に合図する。次藤を振り切らなくてはならな い。
 でも、僕は、その時まったく違うことを考えていた。昨日の、あのパスのことだっ た。僕はあの時、誰からのものでもない、三杉くんの返事が欲しかった。帰国する前 に、僕は彼に一通の手紙を送っていたのだ。
 三杉くんが病院にいたことは知らされていなかった。だからこそ、僕はありのまま 自分の戸惑いをぶつけたのに。
『君が嫌いだ』
 そう書いてしまった。憎しみという形をしていてくれていればむしろ迷うこともなかっ た。自分の気持ちに、はっきりした境界線を引きたかったのかもしれない。
『君には会いたくない』
 あれは嘘だ。本当は、ずっと会いたかった。会わないわけにはいかなかった。直接 会って確かめることが、僕のいちばんの望みだったのだ。
 合宿に来て、僕はその望みがまた裏切られたのを知った。翼くんとの再会の喜び も、代表チームの一員としてプレイする期待感も、僕の空白を埋めてくれなかった。
 昨日の、あのパスが来るまで。
『三杉くん…!!』
 僕を呼んだのは、あの影だった。
 フィールドが不意に闇に閉ざされる。僕は、その真ん中に一人立っていた。
「どうして、こっちに来ないんだよ! 僕がいるから? 僕が呼んでいるから?  君は そうやって僕から隠れ続けるの? ずっと――」
 闇の中は、たまらなく冷たかった。影が住む、そこは。
『――岬くん』 
 手が、僕の額に触れた。目を開く。昨日とまったく同じに、僕の周りを仲間が囲ん でいた。
『岬くん、僕はここにいるよ』
 昨日、翼くんが覗き込んでいたその位置に、彼の顔があった。微笑んで、でも悲し そうに。
「あ……!」
 声を出そうとして、はっと気づく。
「岬、またかよ!」
「大丈夫かぁ、ホンマに…」
 今度は、パスは来ていなかった。いや、高杉からのボールをぼーっと逃してしまっ ていたのだった。
「少し休むか?」
 監督にまで同情顔で来られては言い訳はできなかった。
「――すみません」
 それだけ言ってラインから出る。顔を上げると、森崎がまたじっとこちらを見ていた。

 

 

 

 

 

 

 結局、翼くんはその日も帰らなかった。事情でもう一晩東京に泊まる、とだけ、電 話が入ったそうだ。
 そしてもう一つ、「手術は成功した」という伝言と一緒に。
「岬、何してんだ?」
 夜のミーティングの後、僕は外の風に当たりたくなった。少し浮き浮きした雰囲気 がチームの皆に伝わって、僕は逆にいたたまれなくなっていた。
 食堂から広いポーチに出ると、僕の影が長く伸び、庭の芝のほうまで頼りなく動い た。
「何か、いるのかぁ…?」
 からかうような声もかかる。消灯までの自由時間、めいめいに過ごす時間に昨日 までとはやっぱり違う安堵感が漂っている。そんなふうに、皆も、それぞれに意識し ていたのだ。一人、欠けていた仲間のことを。
「俺も行くよ」
 ポーチまで同じように下りてきたのは森崎だった。
「岬、影踏みしようか」
 僕の、当惑をわざとはぐらかすように、森崎はいつものふわーっとした笑顔を見せ た。一人でとん、とんと片足を打ちつけてみせ、僕を振り返る。
「成功して、よかったよね、三杉」
 誰もが胸に持ち、けれど僕には決して掛けられなかった言葉だった。
「――うん」
 僕は、そう返すのがやっとだった。僕も、そう言ってもらいたかったことにその時気 づく。
「ほら、逃げろよ、岬」
 森崎がおどけたようにポーチの端で手を上げた。僕の影が長く伸びて、森崎は一 歩だけ、その手前にいる。
「岬――?」
 こっちを見て、森崎は驚いたようだった。僕も、なぜ涙が出るのか自分でわからな かった。
「――昨日三杉くんが、パスをくれたんだ。あの時、僕は受けそこねてしまったけど ――」
 森崎はそっと側に立って、僕を覗き込んだ。
「――三杉くんは、確かにいたんだよ、あそこに」
「うん、俺にも見えたよ、岬」
 森崎はなぐさめるためにそう言ったのだろうか。
 その夜、影は何も語らなかった。
 代わりに触れた、影の、体温だけを、僕は繰り返し思い出すこととなった。

 

 

 

 

 

 

 翌朝、まだ早いうちに翼くんは帰ってきて、皆に質問攻めに会っていた。僕はその
輪からはわざと離れていたけれど、一通り説明をしつくしてから、翼くんはロッカール
ームでそっと僕に近づいた。
 手術の後、麻酔から覚めた三杉くんが、僕に、とわざわざ念を押して、伝言を頼ん
だのだそうだ。
 手紙の返事が書けなかったこと、約束を果たせなかったことを、謝ってほしいと。
「それでね」
 翼くんは、それからちょっと考えて付け足した。
「次は、パスを受けてほしい、って。確か俺、そう聞こえたんだけど…」
 別れ際のその言葉を問い返すと、三杉くんは笑って答えなかったのだと、翼くんは
言った。
「気のせいだったのかな…」
「そうだよ、翼くん。気のせいだよ」
 僕はなんだか笑い出しそうで、我慢するのが苦しかった。翼くんは自分が笑われ
ているのと勘違いしたらしい。僕をつかまえて、抗議のベアハッグを仕掛けてくる。
 グラウンドに出ると、今日もまた暑さを予感させるような朝の陽射しが僕たちを包ん
だ。まだ、影が、長い。
 僕は足を止めて、自分の影を眺めた。
「翼くん、影踏みって遊び、知ってる?」
「うん、知ってるよ」
 少し先を走って行こうとしていた翼くんが、きょとんと振り向いた。
「影の頭を踏まれたら、死んじゃうって、あれでしょ?」
「何、それ」
 今度こそ、笑ってしまう。翼くんはふくれていたけれど。
「早いな、二人とも」
 後ろから追いついて来た森崎が、グラブで僕の頭を押さえて走り過ぎた。
「もう、一人で抱え込むなよな、岬」
 何を…?と問う暇はなかった。ぽかんと見送り、それからまた足元に目を落とす。
 土の匂い、草の匂い、そして陽射しの匂い。すべて、現実の証しだ。
 影は、そこにあった。僕の影だった。
 影踏みは、それきり、二度とやることはなかった。







 

 

END

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